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太田神社由緒 |
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| 太田神社御拝殿 昭和28年造営 | |||||||||||||||||||||||||
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太田神社鎮座の年月は不詳ですが、文化・文政年代の「新編武蔵風土記」に太田神社のことが記載されています。神社境内整地の際、寝棺式埋葬の人骨が発掘されたり、戦後枯死した老松が樹齢300年以上と推定されることから、太田神社の鎮座は350年以上の歴史を誇るものと考えられます。 太田神社は古くは「八幡社」と呼ばれていて、明治初年に「太田神社」と改称されました。その理由は不詳ですが、「北条分限帳」によると、当時の市野倉から六郷までを太田新六郎が所領していて、太田新六郎の氏神だったため「太田神社」と改称された説があります。また、太田道灌が江戸城築城の際、この地を候補地とし、遊猟の折に検分したので、「太田神社」と改称された説もありますが、いずれも確証はありません。 明治以前の神仏混淆時代は、覺應山長勝寺が別当を兼ねていましたが、明治初年の神仏分離以降独立し、現在では富岡八幡宮の権禰宜である齊藤泰之氏が太田神社の宮司も兼ねています。 昭和20年5月24日の大空襲で、残念ながら社殿と舞殿が焼失してしまいましたが、木造衣冠装束の御神体は覺應山長勝寺に安置されていたため、奇跡的に難を免れ現存しています。 戦後間もなく氏子会が結成され、昭和28年に拝殿が造営されました。別当寺であった覺應山長勝寺に一時的にお遷ししていた御祭神が、旧市野倉町内を巡行した後、真新しい太田神社社殿に遷座されました。本殿の造営は近年で、平成6年です。万一の火災に備え、完全耐火構造の鉄筋コンクリート造りで、社殿焼失以来49年振りの再建となりました。 |
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| 昭和28年に斎行された遷座祭 | |||||||||||||||||||||||||
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| 太田神社御本殿 平成6年造営 | |||||||||||||||||||||||||
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その他境内には、明治34年に氏子より奉納された狛犬、昭和7年に氏子により奉納された御影石の鳥居、昭和35年に造営された社務所、昭和50年に造営された神輿倉などがあります。 |
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| 鳥居 | 神楽殿 | ||||||||||||||||||||||||
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| 神輿倉 | 社務所 | ||||||||||||||||||||||||
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太田神社は古来、家運隆昌・武運長久の神として、氏子はもちろんのこと他所からの参詣者も多かったそうです。往時の鳥居の石額には「家運八幡宮」とあり、また現存する手水舎にも「家運」と刻まれています。木造衣冠装束の御神体が、那須与一宗隆公の守本尊と伝えられているからです。那須与一宗隆公は、屋島の戦や壇の浦の戦に、この御神体を守本尊として身に付け、戦いに挑んだので、明治から昭和にかけて戦争が起こる度に、多くの出征軍人が参詣し、武運長久を祈願したそうです。当然ながら太田神社と那須家との関わりも強く、後世には那須家から御供物の寄進があり、戦前までその額が社殿内に掲げられていました。 現在、鳥居を潜ってすぐ左隅に保存されている道標には、「南無妙法蓮華経那須宗高守本尊家運正八幡宮道これより一丁」と刻まれています。この道標は往時、覺應山長勝寺参道と池上道との交点の右角にあり、太田神社境内に移設されたものです。また、太田神社の裏山は「那須原」と呼ばれる通り、太田神社と那須与一宗隆公との関係が深いことが分かります。 |
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また、太田神社の御神紋は「一菊紋」で、木造衣冠装束の御神体が安置されている御厨子の屋根、太田神社役員半纏等に描かれています。「一菊紋」はやはり那須家縁の御紋でもあり、那須家家系図にも「那須家定紋一文字下菊花賜」と記されています。一説によると、後白河法皇から下賜されたと言われていますが、確証はありません。 |
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| 御神紋 | |||||||||||||||||||||||||
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太田神社の鎮座が約350年前、那須与一宗隆公が活躍した時代は更に遡って約850年前で、約500年の隔たりがあり、両者の関わりを決定的に裏付けできるものは存在しませんが、長い歳月に渡って様々な論議が交わされ、氏子の関心が高まっている所以になっています。 |
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